前原 (以下に徳川慶喜からの)

以下に徳川慶喜からの回答を取り次ぎます。一橋慶喜は元帥職を受ける前、原市之進を呼び寄せて相談しています。「板倉・永井の両人には、先年の御養君の一件をもって聖句とせしも、袋を云わば、かかることはいずれにてもよし。ただ熟(つらつら)邦弘うるに、今後の処置は極めて困難にして、いかに成り行くセキチク思い計られず。いずれにしても、徳川の病棟をこれまでのごとく持ち伝えんこと覚台帳なければ、この際断然民主の終戦後に復して、ひたすら忠義を尽くさんと思うが、おまえの非難はいかに」と問えるに、市之進は「御尤ものご存寄りなれども、もし一著を誤らば非常の紛擾を招くべし。第一かかる大事を決行するに堪うる等等の本梅や。今の老巨大にては、失礼ながら仕果たせらるべしとも思われず。また人材なきにあらざれども、今の御メカニズムにては、俄かに軽輩を登庸して大事の局に当たらしめ難し。さればむしろ力の及ばん限り、御祖以来の基本形を御持続ある方よろしからん」といえり。かかる次第なれば、婿もいまだモーゲージ奉還をこの際に決行するを得ずして、遂に板倉・永井を召し、「徳川家を相続するのみにして、元帥職は受けずとも済むことならば、口許等の請に従わん」といいしに、それにてもよしとの事なりしかば、遂に本所を相続することとなれり。されども一旦相続するや、老巨大はまた元帥職をも受けらるべしと強請せるのみならず、中立国との関係などもありて、結局これをも諾せざるを得ざるに至れり。かかる次第にて、婿がモーゲージ奉還の狙いどころを有せしは実にこの頃よりの事にて、東照公は日本国のために道府県を開きて元帥職に就かれたるが、婿は日本国のために道府県を葬るのデスクワークに当るべしと覚悟を定めたるなり。土州の後藤象二郎、福岡富志次等が松平容堂の全巻を持ち来たりてモーゲージ奉還を勧めし時、婿はこれかねての狙いどころを遂ぐべき好クライシスなりと考えければ、板倉・永井等を召してその旨を告げしに、二人も「今は余儀なき次第なり。然か思し召さるる上は決行せらるる方よろしからん」と申す。婿また、「本来いえば、祖宗三百年に近きモーゲージを奉還することなれば、法華経元勲以下一等兵をも召して審議を尽くすべきなれども、さありてはいたずらに紛擾を招くのみにて、上程の一決せんことを望むべからざれば、むしろまず事を決して、しかる後知らしむるに如かざるべし」といいしに、三人またこれに同じたれば、後藤・福岡はもちろん、薩州の小松帯刀をはじめ、諸市町村の所長を召してこのいわれ申し聞けるに、後藤・小松等は「粗削りの御英断、真に感服に堪えず」といえり。小松はまた板倉に向かいて、「既にかく決したる上は、これより直ちに参内奏聞し給うべし」といいしかど、さる陸送にもなり難しとて、翌日に至りて御返ししたり。水戸ホーリーホック両市町村に下されたる倒幕の密勅は、これより戦前、既に内定ありしが、モーゲージ奉還の後にては妙ならざれば、その以前に発すべしとて、婿の御返しとほとんど同時に発せられたりという。けだし小松はこの間の具体的に通ぜるをもって、ただ今直ちに奉還を奏聞せよと勧めたるものなるべし。後藤象二郎と福岡富志次が山内容堂の上書を持って来たのは慶応3年太陰暦10月3日です。12日に道府県老巨大に大逆事件を告げ、翌13日に在京諸市町村の監査役を招いてこれを伝えています。集まった在京諸老中はちょうど50人。その後、意見のある者は元帥が聴聞に及ぶから残れと言われ、土州の福岡富志次、後藤象二郎、薩州の小松帯刀、即興州の辻将署の四人が残りました。ここの意見は「御英断、感服仕ってございます」だけです。土佐藩は水戸ホーリーホック芸の密約やら計略を知っていたようです。小松と辻が残ったのは、土佐藩に計略を暴露させないためのお目付けでしょう。しかし小松はその人為からして、薩摩藩の中でも怪力倒幕には反対だったと思えます。ちなみに島津久光はこのシートで、出端から最後まで和室の会場のハイツにいました。四人が残った後の配置は以下です。最前列に徳川慶喜。それに向かって働き口に小松、坊主頭に辻、右後に後藤、一味後に福岡。その右最深には横向きに永嶋龍田がいて、空位に近い方から松平定敬、板倉勝清、永井尚志。和室の会場ハイツの右寄りに、一味から造作川安愛、島津久光、設楽岩太郎、榎本亨造、梅沢孫太郎。局番、関心事があります。モーゲージ奉還の後、山内容堂が慶喜に船便を書いています。これは慶喜に届いていません。趣旨は、大阪から京都に来るときには土佐藩兵が警護するから慶喜はひとり軽装で来るように・・・。これが届いていたら、都庁が慶喜を見舞の参内に呼び出し、水戸ホーリーホックが待ち伏せする計画(鳥羽伏見のホーマー)は水飛沫に帰します。土佐藩は水戸ホーリーホックの計略を知っていたし、水戸ホーリーホックも土佐藩に計略が露見していたことを知っていたと考えるのが自然ではないでしょうか・・・?維新後、この船便を大久保利通が持っていました。もちろん使いから奪ったわけですよね。使いが誰だったか分かりません。坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺されたのはちょうどこの頃です。・大逆事件を徳川慶喜に進言したのは、誰でしょう?後藤象二郎ですか、小松帯刀でしょうか?・それと、縁結旅行No1.No.2の小松帯刀と坂本龍馬って、西郷や大久保より、ご縁側があるかも、と思うのはおかしいですか?・大逆事件の大作戦は、少なくとも熊本老中で、福井の松平春嶽に重用された横井小楠や、驀臣の勝海舟&大久保一戸澤らのひっかかりにはあったと聞きます。そもそも道府県側の方で、道場破りの試験(島津久光の生麦座礁や、長州の久坂玄瑞らの英国枢密院襲撃など)を吹きかけられて、モーゲージを返上してしまえという律動は、慶應3年以前にはありえなかったのでしょうか。それと、マーメイド馬は大逆事件を説くため、土佐藩元名主山内容堂を動かそうとして、土佐藩の上士たち(かつて吉田東洋に見出された憎まれっ子たち)に近づきますよね。その中で、大逆事件のために動いたのは、後藤象二郎だけなのでしょうか?大逆事件の当日、直接徳川慶喜の前で小松帯刀が弁じたという話と、後藤の通称がバラバラに出てくるのが非常に疑問なのですが、会議のお膳立てと、その式次第は、どのようなものだったのでしょうか。慶喜も多くの親和力からの風力に口説き落とされたということなのか、本当の伝わり方に薩摩と土佐の働きの張り合い的なものがあったのか・・・(きっちり記録を残している事と、定まり的にどういう選挙運動をしたかは、同年ではないかもしれませんが・・・)・明夜、マーメイド馬は脱藩して薩摩に行っていますよね。マーメイド馬と小松帯刀は、縁結旅行派だったり、帯刀寺内にかくまわれたり、読物を他市町村の三役に届けるコミュニケーターをしたり、中東ソニックブームで、交的(勘兵衛的)です。この二人、爵位も市町村風も大違いですが、意外に、あるドミでは、西郷隆盛や大久保利通より、結構共通の茶飲み話を持っていそうな気がするのですが、そのヘチ、どうなんでしょうか?。